晴れ、ときどき映画と本、たまに旅

観た映画、読んだ本、訪れた場所などの記録

舘野泉コンサート~シャコンヌ

 左手のピアニスト舘野泉さんのコンサートを聴きに行った。二度目である。

 前回は、「鬼の学校」という曲を聴くためであった。そのコンサートで感銘を受けたので、舘野さんの書いたエッセイなども読んだりして、「シャコンヌ」という曲があるのを知った。バッハ作曲、ブラームス編曲。元はバイオリンのための曲だが、ブラームスが左手のピアニスト用に編曲した。

 今回、近くのホールで舘野泉さんのコンサートが開かれると知り、曲目に「シャコンヌ」があったので、聴きに行くことにした。

 会場は、しらかわホール。良いホールだが、2月一杯で閉館とのこと。残念である。

 曲目は、前回聞いたものと、ほぼ重なっていた。初めて聴くのは、「シャコンヌ」と「サムライ」という曲。

 舘野さんは車椅子で登場。今回は進行役の浦久俊彦氏がいて、舘野さんとのやり取りで進められた。クラッシックのコンサートは、演者が登場していきなり弾き始めるのが普通だが、合間に曲の解説や何かのやり取りがあった方が、初心者にはありがたいし、親しみが持てる。

 今回は、舘野さんのフィンランドの別荘に招待されたつもりで、リラックスして聴いてほしいとのこと。舘野さんの別荘は、湖に面した深い森の中にある。電気もなく、暖房もない。夏の間だけ、ここで過ごすのだという。

 ちょうど端の席だったので、足を組んでリラックスする。

 まずは、三曲。

 ① シサスク:エイヴェレの惑星たち

 ➁ 間宮芳生:山にいて夜ごと鳴く鳥の声

 ③ 吉松隆:水のパヴァーヌ

 星→鳥→水というテーマで並べたとのこと。素敵である。

 聴くのは二度目だが、まったく覚えていなかった。いわゆる現代音楽なのか、自然を表現しているためか、分かりやすいメロディがないのも一因である。①「エイヴェレの惑星たち」の最初の音を聴いたとき、美しいと思った。➁、③と進むにつれて、だんだん眠くなり、目を瞑って聴いていたが、たぶん少し寝たと思う。

 さて、その次が④「シャコンヌ」である。プログラムの解説によると、この曲は「深い精神性をそなえたバッハ芸術の最高峰」とのこと。浦久氏とのやりとりの中では、舘野さんは、「若いころはつまらない曲だと思ったが、弾いているうちにどんどん深まっていった」というようなことを言っていた。

 演奏を聴く。確かに深い。深刻な感じである。一人のときに、繰り返し聴きたくなる曲である。たぶん。しかし、後半は寝てしまった。

 休憩の後、後半残り三曲。

⑤ ノルドグレン:振袖火事

⑥ 光永浩一郎:サムライ

⑦ 谷川健作:さよならは仮のことば・そのあと・のんのんずいずい

 曲の前の解説から。⑤は、振袖火事の由来を舘野さんが説明した。これは前も聞いたので覚えていた。曲の方は印象が少し残っていた程度。⑥は、「最初の頃は、竹光だったけれど、弾き込んでいくうちに立派な刀になった」と話していた。⑦は、前回の聴いたときが初演で、谷川さんも客席に来ていた。少し聞き覚えがあった。

 プログラムを終えて、「もうクタクタ」とのことだったが、カーテンコールは面倒なので省き、アンコールの「赤とんぼ」を弾いて終了。これは美しい、誰でも好きになる曲である。

 舘野さんは、右半身が不自由で、ご高齢でもあり、指も節くれだっているのに、ピアノをなでるように弾くと、深い音が出てくるのにやはり感心する。

 

舘野泉”こころの音楽" 

2024.2.4  三井住友海上しらかわホール 

 

志段味古墳群と東谷山〜名古屋市の最高峰

 志段味(しだみ)古墳群は、名古屋市を流れる庄内川中流域にある。4世紀から7世紀にかけて造られた古墳が大小60基ほど集まっている。この古墳群は、「歴史の里」として整備されている。

 JR中央線高蔵寺駅から徒歩約15分。わりと行きやすい場所にある。

 庄内川を渡ると、ほどなくして「歴史の里」に到着。志段味大塚古墳が現れる。

 5世紀前半に造られた長さ51mの帆立貝式古墳である。復元されていて、石が拭かれ、埴輪が並べられている。上まで登ることもできる。

 ほかにも古墳はいくつかあるが、復元まではしていない。普通の公園という感じで、木が植えられ、ベンチがあった。家族連れもちらほらいる。

 「歴史の里」には「体感!しだみ古墳群ミュージアム」という長い名前の小さな博物館があり、志段味古墳群のことを学ぶことができる。入館料200円。こじんまりしたカフェも併設されているが、大きなテーブルで女性のグループが盛り上がっていたので、入らず。

 大きなスクリーンにアニメーションが投影され、志段味古墳群の成り立ちを紹介したり、パネルで古墳の説明をしたり、出土品を展示したりしている。分かりやすくて良い。

 この辺りは、山と海の中間地点で、交通の要衝であり、古くから豪族が栄えたという。奈良の大和政権の許可を受けて、古墳を造ったとのこと。大和の役人が来て、造り方を教えたという。フランチャイズ制だったのである。

 初めの頃は、巨大な古墳が幾つか造られ、時代が降るにつれて、規模が小さくなる代わりに数が増えた。最初は王みたいな人しか造れなかったのが、最後の方はちょっとした人でも造るようになった。庶民でも頑張ればなんとか手に届く。「いつかはクラウン」みたいな感じだったのだろう。

 ピラミッドなど世界各地に巨大な墓はあれど、古墳のこの形は、日本独特である。なんでこんな形にしようと思ったのだろう。そもそも墓作りにこんなにエネルギーを注いだのはなぜだろう。不思議に思う。

 博物館でもらったマップには、近くに東谷山(とうごくさん)という山があり、散策路になっていると書かれていた。山の上にも古墳がある。

 天気も良いので、登ってみることにした。歴史公園を出て、しばらく歩く。途中、農園などがあり、東谷山フルーツパークもあった。シーズンオフなのか閑散としていた。

 散策路の入り口に到着。東谷山は、名古屋市内の最高峰の山である。標高198m。

 散策路は、いい感じである。400段ほどの階段を登っていく。楽しい。

散策路の階段

いい感じの道


 途中で古墳が三つあった。南社古墳、中社古墳、尾張戸神社古墳。

 山頂の尾張戸神社古墳の上に、尾張戸神社がある。熱田神宮奥の院。東谷山は、霊場でもあるのだった。

 山頂には、木製の展望台があった。登ってみると眺望が開けた。遠くに御在所岳を望み、尾張平野を一望できた。

尾張平野を一望

 帰りもテクテク降る。20分ほどで、山を下る。鳥の鳴き声が聞こえる。

 庄内川沿いの道を歩いていると、円墳があった。東谷山白鳥古墳。6世紀末から7世紀初めの円墳である。横穴式石室を見ることができる。

横穴式石室

 所要時間約2時間。歴史も学べて、ほどよいハイキングであった。

 

 

映画「生きる」〜神の視点・カリカチュア・輪廻

 2023年の5月、久し振りに映画館で見た映画が、カズオ・イシグロの脚本でリメイクした「生きる・LIVING 」だった。

 先週は、映画館に行く時間がなかったので、録画しておいた原作「生きる」(黒澤明監督)を観ることにした。

 「生きる」を観るのは、2回目である。前に観てからずいぶん経っているので、ほとんど忘れていた。そのせいもあり、面白く観た。

 今回、気づいたことを幾つか。

1 神の視点

 冒頭にナレーションが入る。市民課の課長渡辺が延々と書類にハンコを押している  姿が映し出され、「この男は、30年間、生きていないのであった‥‥」と説明する。

 その後も、要所要所で、俯瞰した視点からのナレーションが入る。

 これが入ることで、観客はいわば神の視点から、この物語を観るように促される。

 主人公の市民課長は、胃がんで余命いくばくもないことを知り、自殺も考えたが死にきれず、長年貯めた貯金を下ろして夜の街で歓楽にふけり、元部下の若い女性に入れ上げ、一人息子には見限られ‥‥と気の毒な経過をたどるのだが、ナレーションの効果で、あまり感情移入せず、距離を置いた感じで観ることになる。

2  カリカチュア

 主演の志村喬を始め、みんな演技が濃く、戯画的である。

 まず、印象に残ったのは、病院の待合室で、たまたま居合わせた男から、胃がんの症状をしつこく聞かされる場面。次々に自分に当てはまり、青ざめて顔を背ける渡辺に、男は近づいて延々と言い募る。まるで、地獄からの死者のようである。

 次に、遊びを知らない渡辺に、夜の街の楽しみ方を指南する小説家もキャラが立っていた。パチンコ、バー、キャバレー、ストリップなどなど次々と連れ回す。これは『ファウスト』のメフィストフェレスを思わせる。

 市役所の助役は偉そうに振る舞い、部下たちはヨイショし、下っ端は小役人らしくと、みんな与えられた役割を忠実に演じている。

3 輪廻

 渡辺は、役所の慣例を破り、地元のおかみさんたちの陳情受けて、小さな公園作りに奔走する。そして、完成した公園のブランコで、「ゴンドラの歌」を歌ったのを見回りの巡査に目撃された翌朝、冷たくなっていた。

 そんな渡辺の姿をみて、小役人の部下たちも、「俺たちも渡辺さんを見習おう」と通夜の席では盛り上がったものの、すぐに元の「何もしない課、たらい回し係」に戻ってしまう。

 そして最後のシーンは、子どもたちが公園でただ遊ぶ姿。

 結局は何も変わらない。同じことが延々と繰り返されていく。

 『太陽の下、新しいものは何ひとつない。』(旧約聖書コレヘトの言葉より)

 

 今回観るまでは、「惰性で生きていた人が死に直面して初めて人生と向かい合う物語」という印象であった。確かにそんな話なのだが、単純に悲劇や「いい話」なのではなく、1~3の効果のせいか、喜劇的で、諦念のような、何か悟ったようなところのある作品であることに気づいた。

 このように原作は、複雑でごちゃごちゃしているところがあるが、リメイクされた「生きる・LIVING 」は、枝葉が取り除かれて、シンプルな良い話に仕上がっていた。もちろん、こちらも良い作品であった。

 生きるとは、何か。それは、悲劇であり、喜劇であり、「ちょっといい話」なのかも知れない。

 

 

映画「笑いのカイブツ」~レゾンデートル

【作品のあらまし】

 原作は、同名の構成作家ツチヤタカユキ氏の自伝的小説。

 ツチヤは、母と二人暮らし。就職もせず、部屋にこもってお笑いのネタを考え続けている。テレビの大喜利でレジェンドを獲得し、新喜劇の劇場に漫才の台本を持ち込む。才能が認められ採用されるが、周囲と交わらず、独善的な態度をとり続けるツチヤに居場所はなかった。新喜劇を辞めたツチヤは、深夜ラジオに投稿するハガキ職人となる。人気漫才師に認められ、上京するも、ろくに挨拶もできず、妥協することもできず、周囲の和を乱すばかり。酒におぼれ、体も壊してしまう。作品は大いに受け、ライブは成功するのだが、ツチヤは大阪に帰り、自暴自棄になって、道頓堀に飛び込む。

【お笑い】

 ツチヤ自身は、笑うことは一度もない。たまに薄笑いを浮かべるくらいである。このように暗い人物が人を笑わせるネタを考えられるのだろうか、と思ってしまうが、たぶん逆である。自分が笑ってしまえば、人を笑わせることはできない。

 人はなぜ、笑うのか。おかしいからである。どういうときに、おかしいと感じるのか。それは、何か意外なことが起こったときや、常識とは外れたことに接したときに感じるのである。

 すると、笑わせるには、意外なことや常識外れなことを考えなくてはならない。

 そのために、ツチヤは四苦八苦するのである。だから、「お前、おかしいやろ」と言われて、ツチヤは「最高の誉め言葉じゃ」と答える。

【レゾンデートル】

  ではなぜ、ツチヤは、そこまでしてお笑いにこだわるのであろうか。

 これは、ツチヤが世間では、うまくいかないためであると思われる。

 成人式のスーツを着るようにと言う母親に対して、ツチヤは「成人式なんか行くか。修学旅行にも行っていないし、卒業式にも出ていないんじゃ」などと答える。

 なぜツチヤが世間から外れてしまったかは明らかではないが、対人関係が下手なのは確かである。もともと、人との関係が苦手なところに、何年も引きこもって笑いのネタを考え続ける生活を送っていたため、対人関係能力が衰えてしまったのだろう。

 その上、自分は誰よりも努力し、面白いはずだという思いもあり、人に合わせることもしないのである。

 しかし、ツチヤは、世間から認められたいと強烈に願っている。承認欲求が強いのである。自分にはお笑いしかないと思い込み、自分を追い込んでしまっているため、お笑いにしがみつくということになったいるようだ。いわば、お笑いがツチヤのレゾンデートル(存在理由)になっているのである。

【カイブツ】

 映画館の帰りに本屋に寄って、「笑いのカイブツ」を買って、読んでみた。

 本も面白かった。確かに不器用なのだが、映画のツチヤほどエキセントリックではなく、むしろ誠実な人のように思われた。また、大変な努力家でもある。

 本を読んで分かったのだが、「笑いのカイブツ」は、ツチヤ自身のことではない。ツチヤにつきまとっているカイブツなのである。ツチヤがお笑いを辞めて、普通の生活を送りたいと願うたびに、カイブツが現れて、ツチヤをお笑いに引きずりこむのだそうである。長年、お笑いのことばかり考え続けたため、そのような強迫観念に悩まされることになったようだ。

 

笑いのカイブツ

★★★★

 お笑いの構成作家というニッチな分野であるが、何か一つのことに賭けた青春映画としても秀逸。116分。退屈せず、面白く見た。

 

 

 

 

 

映画「みつばちと私」〜生まれ直しの儀式

【あらまし】

 夏のバカンスをスペインバスク地方の実家で過ごす母と3人の子ども。末っ子のアルトールは、男の子であることに違和感を覚えている。愛称のココ(男の子)と呼ばれることも嫌う。髪を長くして、マニュキュアをしている。プールは恥ずかしくて入れない。友達もできないが、唯一、養蜂場で知り合った女の子と密かに遊ぶ。

 アルトールの個性を尊重する母に対して、周囲の人々は、男の子のようにさせるべきだと言う。その母も、アルトールが性自認の問題を抱えていることは、受け入れられない。

 そんなアルトールも、養蜂家の大叔母には心を開く。自分には名前がないと言うアルトールに、「存在しているものには名前がある。名前がないなら、自分でつけなさい」と告げる。

 覚悟を決めた母は、祝祭日にアルトールにドレスを着せて、カミングアウトをさせようとする。ところが、アルトールは、その場から姿を消してしまう。

 その間、アルトールは、密かに養蜂場に行き、蜜蜂の巣箱を4回叩いて、ルチアという新しい名前を名乗るのだった。

【儀式】

 アルトールは、8歳である。まだ、性的な同一性について悩むには早いような気もする。とはいえ、5歳くらいになれば、男の子らしさ、女の子らしさははっきりしてくるのだから、違和感を覚えてもおかしくないとも思える。

 そんなアルトールをありのまま受け入れたのは、養蜂家かつ蜂針療法家の大叔母である。人里離れて一人で暮らしていて、世間からは外れたところにいる。

 オトコとオンナの区別は、コトバが作り出したものである。人間の身体は自然のものなで、コトバにできない部分もある。大叔母がアルトールを受け入れられたのは、大叔母が自然と近いところにいたからだろう。

 大叔母は、「女の子に生まれ変わりたい」と言うアルトールに、「自分が生まれた時には、母が蜜蜂の巣箱を3回叩いて名前を告げた。母が死んだ時にも、巣箱を3回叩いて、返した」と話して聞かせる。

 とはいえ、人はコトバによって生きる。アルトールが生きるには、ふさわしい名前を見出さなくてはならなかった。

 アルトールは、大叔母からの教えを取り入れて自分なりにのやり方で新しい名前を名乗る。これは、生まれ直しの儀式のように思われた。

 

みつばちと私

★★★★

 

 

 

猿投山~愛知の高尾山

 猿投山は、愛知県豊田市瀬戸市にまたがる標高629mの山である。手軽に登れる山として、ファミリー層にも人気という。

 名鉄豊田市駅から、とよたおいでんバスに乗って、約30分。猿投神社前で降りると、午前10時半に登山口に着く。

 まずは、猿投神社で当日の無事を祈願。初詣なのか、わりと人が来ていて、露店も出ていた。

 登山道は、猿投神社の脇道を上っていくと始まる。天気が良いせいか、家族連れやカップルなど結構来ている。

 猿投山は、愛知県では高尾山的な位置づけなのである。

 しばらく歩くと、山道に入る。

ここから山道

 写真のとおり、丸太で階段状に整備されていて、上りやすい。しばらく登ったり、平坦なところに出たりということを繰り返す。

 こんなところにもツキノワグマが出るそうで「クマに注意」とあちらこちらに注意書きがあった。クマよけの鈴を付けた人やラジオを流しながら歩いている人もいる。

 途中で休憩をはさみながら、展望台へ。

展望台からの眺め。

 大きな岩が張り出していて、そこから眺望が開けていた。地球が丸いことがなんとなく分かる。地元の中学生らしきグループが来て、楽しそうにはしゃいでいた。

 展望台からしばらく行くと、東の宮と西の宮の分岐点が出てきたので、東の宮の方に進む。しばらく歩くと、東の宮の鳥居が現れた。

 鳥居を入っていくが、東の宮まではけっこう距離があった。たどり着いた東の宮は、わりとこじんまりしていた。参拝する。

 東の宮の左側に山頂の案内があったので、それに沿って歩く。途中、カエル岩というのがあった。

カエル岩

 落書きをするな、と書いてあったが、目と口が書かれていた。猿投山は、巨石でも有名なのである。

 それから、しばらく上ったり、下ったりをして、山頂に到着。

山頂。テーブルやベンチがある。寒かった。

 昼過ぎになっていたので、持参のカップラーメンとおにぎりを食べる。山頂は吹きっさらしで、雲が出てきて、寒かった。周囲を見ると、他の人たちもカップ麺を食べていた。

 寒いので、昼食もそうそうに引き上げることにする。

 ここからは尾根伝いなのか、わりと平坦な道となる。気が付くと、周りに人がいない。西の宮の方を回って戻るつもりだったのが、別の方向に来てしまったらしい。心細くなるが、道はしっかりしているし、そのまま歩いていく。

 途中で休憩をしているご夫婦に会ったので、道を教えていただく。

 川沿いを下っていくと、下に出られることが分かる。途中、猿投七滝という小さな滝が七ヶ所あり、その周囲が散策道になっていて、滝を眺めながら下った。

猿投七滝のうちの一つ

 遠回りになり、歩いた距離は約15キロ。ふもとのバス停には3時に着いた。

 少しくたびれたが、歩きやすく、初心者にはちょうど良い感じであった。

 

 

 

 

映画の愉しみ~一本で三度おいしい

 今年の5月連休明けから、映画館に通い始めた。それから約半年。週に1〜2本を観る。映画館で映画を観るのは、愉しい。

【観る前】

 映画館の上映スケジュールを観て、どの映画を観ようかと考える。予告編を観て、これを観ようと決めていることもある。公式サイトを観ることもある。ただし、あまり先入観はもたないようにする。

 観たい作品が決まると、上映時間に合わせて時間を調整する。映画館まで出かけて、映画を観て、帰ってくるとすると、4時間くらい空ける必要がある。

 通っている映画館では、毎週金曜日に平均3本の新作がリリースされる。観たい作品が複数ある場合は、悩ましい。さほど観たいものがない場合は、観てもいいかなと思うものを選ぶ。観たい作品でも期待外れのこともあるし、期待してなかったのに当たりだったという場合もある。

 映画館に着いて、上映まで時間があるときには、近くの喫茶店で軽食をとったり、コーヒーを飲む。席が空いていれば、窓側の席で、通りを行き交う人たちを眺めたりする。

 時間になると劇場へ。たいがい、コーヒーなどの飲み物を買って入る。

【鑑賞中】

 鑑賞中は、電話がかかってくることもなく、誰かが訪ねてくることもない。テレビと違い、コマーシャルが入ることもない(上映前には、毎回同じコマーシャルが流れるが)。

 いきなり作品の世界が始まるので、最初のうちは集中して観る。およそ30分。次第に様子が飲み込めてくると、作品の世界に入り込むことができる。

 それは、ちょっと旅行に出かけるようなものである。知らない街の知らない人たちの暮らしぶりを知る。話し方、人との距離取り方、食べ方、考え方、様々である。

 ストーリーは、あまり明確でない方がいいような気もする。分かりやすい話は、概してつまらない。むしろ、矛盾や辻褄の合わない方が、リアリティがある。

 映像が美しく、静かな映画も良いが、人々が会話を続けている作品も好きである。

 まったく心が動かないのもどうかとは思うが、感動するのも、ほどほどが良い。

 暴力は、見たくない。暴力がテーマの作品は最初から見ないが、途中で暴力シーンがあるときは、よそを向いてやり過ごす。

 テーマ性の強過ぎる作品は、押し付けがましい感じがして好きではない。突飛な結末やオチは不要である。

 過剰な音響や演出は、余計である。かえって、興をそがれる。

 時間は、90分から120分程度がちょうど良い。それ以上になると、だれてしまう。それにトイレに行きたくなって、落ち着かない。

 エンドロールまで見る。一つの作品に多くの人が関わっていることが分かる。

【観たあと】

 旅行と同じで、観たあとの方が楽しい。

 公式サイトを見なおす。実話を元にした話や、歴史物の場合は、インターネットなどで調べてみる。関連する本を読むこともある。知識が増える。

 分かりにくい作品やもやもやする作品の方が、考える材料は多くなる。何日かして、何か気づくこともある。

 考えたことなどをブログに書く。日記と違い、誰かに読まれるかもしれないと思うので、なるべくきちんと書く。書くのも楽しい。

 一連のことが終わると、パンフとチケットはクリアフォルダに保管する。

 次は、どの作品を観ようかと考える(⇒【観る前】に戻る)。

【まとめ】

 このように映画館で映画を見るのは、三度の楽しさがある。読書ほどではないが、他の娯楽に比べて、安上がりだし、他人に迷惑をかけることもなく、一人でも楽しめる。

 宜しいのではないかと思う。