2023年の5月、久し振りに映画館で見た映画が、カズオ・イシグロの脚本でリメイクした「生きる・LIVING 」だった。
先週は、映画館に行く時間がなかったので、録画しておいた原作「生きる」(黒澤明監督)を観ることにした。
「生きる」を観るのは、2回目である。前に観てからずいぶん経っているので、ほとんど忘れていた。そのせいもあり、面白く観た。
今回、気づいたことを幾つか。
1 神の視点
冒頭にナレーションが入る。市民課の課長渡辺が延々と書類にハンコを押している 姿が映し出され、「この男は、30年間、生きていないのであった‥‥」と説明する。
その後も、要所要所で、俯瞰した視点からのナレーションが入る。
これが入ることで、観客はいわば神の視点から、この物語を観るように促される。
主人公の市民課長は、胃がんで余命いくばくもないことを知り、自殺も考えたが死にきれず、長年貯めた貯金を下ろして夜の街で歓楽にふけり、元部下の若い女性に入れ上げ、一人息子には見限られ‥‥と気の毒な経過をたどるのだが、ナレーションの効果で、あまり感情移入せず、距離を置いた感じで観ることになる。
2 カリカチュア
主演の志村喬を始め、みんな演技が濃く、戯画的である。
まず、印象に残ったのは、病院の待合室で、たまたま居合わせた男から、胃がんの症状をしつこく聞かされる場面。次々に自分に当てはまり、青ざめて顔を背ける渡辺に、男は近づいて延々と言い募る。まるで、地獄からの死者のようである。
次に、遊びを知らない渡辺に、夜の街の楽しみ方を指南する小説家もキャラが立っていた。パチンコ、バー、キャバレー、ストリップなどなど次々と連れ回す。これは『ファウスト』のメフィストフェレスを思わせる。
市役所の助役は偉そうに振る舞い、部下たちはヨイショし、下っ端は小役人らしくと、みんな与えられた役割を忠実に演じている。
3 輪廻
渡辺は、役所の慣例を破り、地元のおかみさんたちの陳情受けて、小さな公園作りに奔走する。そして、完成した公園のブランコで、「ゴンドラの歌」を歌ったのを見回りの巡査に目撃された翌朝、冷たくなっていた。
そんな渡辺の姿をみて、小役人の部下たちも、「俺たちも渡辺さんを見習おう」と通夜の席では盛り上がったものの、すぐに元の「何もしない課、たらい回し係」に戻ってしまう。
そして最後のシーンは、子どもたちが公園でただ遊ぶ姿。
結局は何も変わらない。同じことが延々と繰り返されていく。
『太陽の下、新しいものは何ひとつない。』(旧約聖書コレヘトの言葉より)
今回観るまでは、「惰性で生きていた人が死に直面して初めて人生と向かい合う物語」という印象であった。確かにそんな話なのだが、単純に悲劇や「いい話」なのではなく、1~3の効果のせいか、喜劇的で、諦念のような、何か悟ったようなところのある作品であることに気づいた。
このように原作は、複雑でごちゃごちゃしているところがあるが、リメイクされた「生きる・LIVING 」は、枝葉が取り除かれて、シンプルな良い話に仕上がっていた。もちろん、こちらも良い作品であった。
生きるとは、何か。それは、悲劇であり、喜劇であり、「ちょっといい話」なのかも知れない。