晴れ、ときどき映画と本、たまに旅

観た映画、読んだ本、訪れた場所などの記録

映画「急に具合が悪くなる」~境界を超えること

※ネタバレあり。

【あらまし】

 パリで老人ホームの施設長をしているマリー=ルーと演劇の演出家の真里がひょんなことで出会う。マリー=ルーは、早稲田大学で文化人類学を専攻し、東日本大震災を機にフランスに戻り、介護の世界に入った。真里は、ソルボンヌ大学で哲学を専攻し、演劇の道に進んだ。二人はあっという間に意気投合して一晩で親友になる。ところが、真里は、末期がんで、いつ急激に悪化するか分からない状態なのであった。残された時間を二人は、互いを知ろうし、真摯な議論を交わし、濃密な時を過ごす。そして、二人がたどり着いた場所は……。

【ユマニチュード】

 マリー=ルーは、老人ホームにユマニチュードを取り入れようと奮闘している。ユマニチュードとは、認知症者を知性や感情を持った一人の人間として扱っていくケアの技法である。ケアされる人が安心感を持つことで、介護もスムーズに進む。ただし、これまでのやり方を変えることには、職員の根強い反対があり、経営陣も経済効率が悪いと難色を示す。

 真里の演劇では、イタリアで精神病院廃絶を実現したバザーリアをテーマにした脚本を老年の喜劇俳優吾郎が一人芝居で演じる。精神病者と健常者の間には境界がないというメッセージは、マリー=ルーに深く届く。舞台の後、長い夜の散歩を共にした二人は、マリー=ルーの職場の寮で議論を交わす。真里は、ホワイトボードに図を描いて、資本主義のシステムは、限りなく自然や人を食い潰すものであり、いずれ破綻することを指摘し、二人は自分たちが闘っているものについて考える。

【具合が悪くなる】

 翌朝、主治医が予告したとおりに、真里の具合が急に悪くなる。真里は、結局自分は何も残せなかったと嘆く。真里の身体は、資本主義の結実である先端医療で何とか支えられている。しかし、自然である身体は、それに逆らう。真里は、主治医に勧められたホスピスに入るのをやめ、残された時間をマリー=ルーの施設にユマニチュードを導入するための仕事をすることに決断する。そして、二人の時間が融合を始める。

【境界を超えること】

 マリー=ルーは、老人ホームを地域に開かれたものにし、ケアされるものとケアするものの区別をなくそうとする。真里は、生と死の境界を越えようとしている。これを仲介したのは、重度の自閉症者である吾郎の孫の智樹である。智樹は、吾郎の舞台に勝手に上がり込んで、自由に振舞う。吾郎は、それを取り入れて演劇を作り上げる。真里の演劇では、演者と観客の境をなくすことを意図しているのだった。

終盤のシーンでは、老人ホームの中庭に設けられた吾郎の舞台に、認知症の老人と智樹が入り込み、それに呼応して人々も集まって、ケアされる者とケアする者の区別なく、みんなで真里が教えた足裏マッサージをし合う。マリー=ルーも真里も闘う必要などなかったことを悟ったようであった。

【感想】

 この映画の原作は、女性哲学者と女性文化人類学者の往復書簡『急に具合が悪くなる』(晶文社)。劇場の帰りに本屋に寄ったら、平積みにされていたので、買って読んでみた。考えさせられ、手掛かりの多い作品であった。映画では設定は異なり、様々なテーマは盛り込まれているが、原作の本質はそのまま移されていると感じた。

 

「急に具合が悪くなる」★★★★★

映画チャップリン「黄金狂時代」~喜劇役者は笑わない

 チャップリンの「黄金狂時代」は、1925年に公開(アメリカでは6月、日本でも同じ年の12月)された。今からちょぅど100年前である。映画館で4K修復版を上映していたので、観に行った。

 「黄金狂時代」は、数あるチャップリン映画の中でも傑作とされる。当初は、サイレント版だったが、のちにチャップリンサウンド版にしてストーリにも少し手を加えた。今回上映されたのは、オリジナルを再現したもの。

 だいたい、こんな感じのストーリである。

 アラスカは空前のゴールドラッシュ。砂糖の山に蟻がたかるように男たちが押し寄せている。季節は冬で、山は険しく、雪が深く積もっている。そこに現れるチャップリン。雪山で遭難して、山小屋にたどり着く。吹雪で閉じ込められてしまい、食料をめぐって他の男たちとドタバタを繰り広げる。ようやくのこと、山から降りたチャップリンは、街のダンスホールで見かけたダンサーに一目惚れ。からかわれているとも知らずに、熱を上げる。チャップリンの真面目さにダンサーもほろりとする。チャップリンは仲間に誘われて再び山へ。ハプニングの末、金鉱を発見、一躍大金持ちになる。帰りの船でダンサーと結ばれて、めでたしめでたし。

 陳腐である。

 チャップリンは、いつも場違いで、いたって真面目である。チャップリンが真面目にやればやるほど、周りの人は笑い転げる。人を笑わそうとする者は、自分が笑ってはいけないということがよく分かる。

 チャップリンは俗物である。お金がほしくて山に入り、きれいな女性を見るとほれ込み、たまたま金持ちになると得意げに振舞う。また、チャップリンには内面が乏しい。大晦日の夜、ダンサーが訪ねてくるという口約束を信じて夕食とプレゼントを用意するがすっぽかされる。見ていて気の毒になったが、本人はへこたれずに、即行動する。

 100年前といえば、大正14年である。第一次世界大戦が終わり、日本では大正デモクラシーの時代。この映画を見て人々はどう感じたのだろうか。

 チャップリンが内面がないように見えるのは、喜劇だからであろうか。主人公が本気で悲嘆にくれたり、悩んだりしていては、それは喜劇ではない。あるいは、現代は内面が重視されすぎているせいで、そう感じるのだろうか。

 また、この時期以降に、日本は暗い時代に突入する。アメリカの喜劇映画で笑い転げていた人々がアメリカ相手に戦争を始めたのは、どうした訳だろうか。

 チャップリンチャップリンとして面白かったのだけれど、100年前の世界を覗き見たような気がして、少し考えた。

 

「黄金狂時代」サイレント4K修復版

★★★

 

三宅香帆「考察する若者たち」~若者たちは報われたい?

 なんでも、近頃の若者は映画や本をただ楽しむだけでは飽き足らず、報われることを求めるのだとか。たとえば、『ワンピース』とか『鬼滅の刃』の映画が公開される。するとすぐに考察動画なるものが配信される。それは、その作品に隠された伏線や裏設定を解説するものだ。そうやって、作者が仕掛けた謎を解く。若者は、映画を見て「面白かった」ではまだ半分で、正解を探り当てるゲームをすることでコンプリートするらしい。おまけ目当てにビックリマンチョコを買うみたいな話である。

 「報われ」をキーワードに、著者は、若者の傾向一般について解説する。たとえば、今の若者はアイドルに「萌える」のではなく、「推す」。「萌え」はその場限りの感情だが、「推し」は、アイドルの成長という報いがあるという。仕事に「やりがい」よりも「成長」を求めるのも、「成長」の方が収入や安定などの見返りがあるから。その背景の一つには、「親ガチャ」と言われるように、生まれによっては努力しても報われないという諦めがある。また、AIが常に最適解を示してくれるようになり、SNSのプラットフォームが好みをリコメンドしてくれるので、失敗しない選択ができるようになったということも大きい。さらに、アリゴリズムは、若者たちが「界隈」という同質的なグループに閉じこもることも助長している、という。

 このように分かりやすく分析しつつも、著者は若者目線に立っている。終章では考察も創作の一つの在り方として十分にありだとしつつも、正解探しに終始するのではなく、自分の感想も大事にしてみたら、と誘う。そして、あとがきでは、本書の内容を話したときには若者から質問を受けた場合に備えて、「やりたいことや自分だけの感想を見つけるためコツ」まで箇条書きで指南する。なかなか行き届いている。

 ちょっと雑な議論だとは思いつつも、文章の流れが良く、構成が巧みで、すらすらと読んでしまった。ターゲットは若者を理解したい中高年層のようであり、まんまとはめられてしまった感も。

 

「考察する若者たち」三宅香帆著 PHP新書 1,100円

 

 

映画「チャップリン」~アイデンティティを探す旅

※ネタバレあり

【あらまし】

 チャップリンの出自をめぐる物語。チャップリンの息子マイケルが語り手となって、亡き父のルーツをめぐってインタビューをして歩く。

【8分の1】

 チャップリンには、実はロマ(ジプシー)の血が流れていた、ということがテーマである。といっても、それは隠し事ではなく、生前のチャップリンはそれを公言していたし、誇りに思っていた。

 ロマの人々は、流浪生活を送っているものの、もともとは古い高貴な種族と信じられており、独特の芸能や音楽を持っているという。チャップリンは「放浪紳士」としての自分を重ね合わせたようだ。

 とはいえ、ロマの血といっても、8分の1。チャップリンの曽祖父の一人がロマの人らしき女性と結婚していたらしいという話である。残りの8分の7の方が圧倒的に優勢な気もしたが……

 チャップリンは、舞台芸人の父母の間に生まれた。早い時期に父母は別れて、兄とともにシングルマザーの母に育てられた。幼少期は極貧で、貧窮院で生活していた時期も長かった。早くから舞台に立ち、喜劇俳優として各地を巡り、映画俳優として「小さな放浪紳士」というキャラクターを確立して世界的に有名になり、莫大な富も得た。しかし、共産主義者のレッテルを貼られてアメリカを追放され、イギリスを経て、スイスに移住した。生涯で四回の結婚をし、11人の子をもうけた。なお、マイケルは、最後の結婚相手ウーナ・オニールとの間の二番目の子である。

 こんな生い立ちとキャリアからチャップリンは、拠り所をロマに求めたのだろう。

 チャップリンは、自分がどこで生まれたかは知らなかった。自伝を発刊した後にある人物から手紙を受け取る。その手紙には、チャップリンはロマのキャンプ地で産まれたと書いてあった。信憑性に乏しい手紙だが、チャップリンはその手紙を大事に保管していた。

【マイケル】

 マイケルは、チャップリンが57歳の時の子である。物心ついた頃には、父は、世界的に有名な人物で、家は裕福であり、何不自由なく育った。幼い頃は父とも共演した。父から期待をかけられたのだが、マイケルは勉強が嫌いで、彼女と遊んで周り、十代半ばには家出同然にイギリスに渡り、長年帰らなかった。偉大な父がプレッシャーになったのだった。

 現在、マイケルは79歳。作家。長く伸ばした白髪をポニーテールにして、中折れ帽をかぶり、なかなか雰囲気のある老人である。マイケルも放浪的な人生を送ってきた。子どもや孫も多くいる。しかし、この歳になっても、父との確執を引きずっている。マイケルの旅は、自らのルーツを確かめるための旅でもある。人生を振りかえり、父とのつながりを確かめ、人生の意味を見出そうとしているようだ。

 マイケルの他にも、チャップリンの子らがインタビューに応じている。皆さん俳優、作家、音楽家など芸術・芸能系の人々である。チャップリンという一人の人物が家族に与えた影響の大きさ感じさせる。また、本作の監督カルメンチャップリンは、マイケルの娘であり、女優である。ロマにルーツがあるということは、チャップリン一族のアイデンティティーでもあるようだ。

 

チャップリン

★★★

 途中で挿入されるチャップリンの映画作品のシーンがどれも魅力的。チャップリン映画を観てみたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

映画「旅と日々」~旅の効能

※ネタバレあり。

【あらまし】

 つげ義春の短編漫画「海辺の叙景」「ほんやら洞のべんさん」をもとにした作品。舞台を現代に移し替え、劇中劇の手法を用いられる。

 ひなびた漁師町の海辺で偶然出会った若い男女。何となく一緒に時を過ごす。台風で荒れる海に二人は入り、先に上がった女はもがくように泳ぎ続ける男に声援を送る。

 実は、これは脚本家の李が描いた作品が映画になったもの。映画の上映会で学生から質問を受けた李は、「私には才能がないと思いました」と答える。行き詰った李は、雪深い温泉町に一人旅に出かけ、そこで、古い民宿を一人で営むべん造の宿に泊まるはめに。そして李は、べん蔵の盗みにつきあわさせることになり……

 明解なストーリーやあっと驚く結末は用意されていない。

【言葉の外へ】

 李は脚本をノートにハングルで書いている。李は、「日本にやってきたときには、言葉が分からず怖かったが、物の名前が分かっていくにつれて、怖くなくなった。しかし、その名前の付いた言葉たちが、自分を苦しめる」と独白する。それで旅に出る。行き当たりばったりだったので、どこのホテルも満室。成り行きで、べん造の宿に泊まることになった。

 べん造は、得体が知れない男である。客が来ても歓迎するでもなく、仕方なく泊めてやっているような風情である。その割には、李が脚本家だと聞いて、創作のアドバイスをしたり、自分をモデルに作品を書いてみろ、などと言う。それでは、と李がべん造のプライベートを尋ねると、今度は口を閉ざしてしまう。そして、李から錦鯉の養殖でもしたらと言われると、急に支度を始め、暗くて雪深い外に李を連れ出す。近所の金持ちの家の錦鯉を盗みに行くために……。

 このように、べん造の言動には論理や一貫性がない(盗みに行った先は、べん造の妻の実家で、そこでべん造は自分の子と出くわしたりし、深い事情があるようなのだが、それについては語られることはない)。

 しかし、この旅の中の小旅行ともいえる体験を経て、李は元気を取り戻すのである。脚本を書いて評価を受けるということ(つまり言葉=論理)に疲れた李が、言葉の外に出ることによって、肩の荷が下り、本来の自分を取り戻したということのようだ。

【旅の効能】

 心が疲れたときには旅をするのが良い、と言われる。悩んでいることや場所からいったん離れるとリフレッシュされる、という効果が期待されている。確かにそういうことはありそうだ。

 人の悩みの大半は、対人関係の悩みなんだそうである。そして悩みは、色々と考えることから起こっている。人は言葉を使って考える。だから、言葉が人を悩ませ、苦しませるということになる。

 ということなので、悩みから離れるために旅をする場合は、一人旅が良い。それから、多少は慣習や言葉が違う場所の方がいいのかもしれない(まったく慣習や言葉が分からないと、心配で悩みが増えてしまうおそれがある)。そこで、普段とはまったく違う体験をするのが良いのかもしれない(あるいは、意味のあることは何もしないのも良いかもしれない。「海辺の叙景」の二人のように)。

 もちろん、観光やアクティビティのための旅行も悪くはない。それはそれで楽しいものだ。しかし、心が疲れたときに、いつもの仲間とスケジュールびっしりの旅行に行っっても、より疲れが増すだけだ。

 旅に出られないときには、近所の公園で木に抱き付いてみるだけでも効果があるらしいが、これは同じ理屈だろう。*1ポイントは言葉の外に出るということである。

【劇中劇】

 本作は、劇中劇の手法が用いられている。「海辺の叙景」は、李の頭の中のストーリであり、それに触発されて、李は旅に出る。そういう意味では、李は自分が想像したことをなぞって行動したとも言える。想像力が行動を生み出すということか。もし、この映画を見た人が旅に出たとしたら、この映画がその人の中での劇中劇の役割を果たすことなる。そう考えると、劇中劇という形式が合わせ鏡のように、作品に奥行きを与えていると感じる。旅先でべん造に出会えるかどうかは分からないけれど。

 

旅と日々

★★★★

*1:『「ひとりぼっち」こそが最強の生存戦略である』 名越康文 夜間飛行

映画「私たちが光と思うすべて」~私たちはどう生きるか

※ネタバレあり。

【あらまし】

 インドのムンバイ。人々がごったがえす大都会の片隅で暮らす看護師のプラハとアヌ。年上のプラハはしっかり者だが真面目で堅物。若いアヌは無邪気で自由奔放。二人はルームメイトである。

 プラハの見合い婚をした夫は出稼ぎでドイツに行ったきり帰ってこない。一緒に暮らしたことすらなく、音信も途絶えている。プラハは職場の医師から遠回しにプロボースされるが、それでも夫がいるからと断る。

 アヌは、田舎の両親から結婚を迫られ、次々と見合い写真が送られてくる。ところがアヌは密かにムスリムの青年と恋仲になっている。

 プラハは、アヌの世話を焼きながらも、アヌの行状に我慢ができず、非難してまうこともある。二人で仲良く枕を並べて語らうこともある。

 病院の食堂で働くパルヴァディ(食堂のおばちゃん)は、高層ビル建設のために自宅アパートから立ち退きを迫られ、田舎に帰ることにする。

 プラハとアヌは、パルヴァディの故郷である海辺の村まで引っ越しの手伝いに行く。パルヴァディは、田舎で急に生き生きとしはじめる。プラハとアヌは、それぞれに神秘的な体験をする。

 夜の海辺のカフェで、アヌの恋人を加えた四人が過ごす場面で終わる。

【ローカルだが普遍的でもある】

 ムンバイは急速な発展を遂げている街。貧富の差は歴然としていて、労働者階級は酷い扱いを強いられる。親の決めた相手と結婚することが当たり前で、異教徒と婚姻するのはハードルが高いようだ。言葉の問題も複雑で、医師は患者の話すヒンドゥー語が分からない。

 このようにインド社会問題が背景として描かれているが、テーマは普遍的である。

 三人の女性は、それぞれの人生の岐路にさしかかっている。

 アヌは、結婚問題。恋人と過ごすのは楽しい。しかし、自分の選んだ人と結婚すると、苦労するのは目に見えている。

 プラハは、結婚をどう終わらせるか。もう若くはない。あてにならない夫の帰りを待ち続けるのか、諦めて自分の人生を歩むのか。

 パルヴァディは、老後の過ごし方。子どもの厄介にはなりたくないが、田舎での一人暮らしはいつまで保つのか。

 もちろん、結論は出ない。人生には問題がつきものだけど、それはそれで何とかやっていきましょう、それこそが人生なのよ、という感じであった。

 舞台を日本に移し替えても、十分に成り立つと思われた。たとえば、四大卒の会社員マイはニートの彼氏との結婚問題に悩み、キャリアウーマンのケイコは長年別居をしている夫との関係について決断ができず、定年延長を断ったサチコは田舎に戻って一人暮らしを始めることにした、とか。

 作品の骨組みをどこの国に移し替えても成り立ちそうであり、そのために国際的にも受け入れられたものと思われた。

【インドの自然】

 作品の終盤に不思議な出来事が起こるが、インドの深い自然の中で起こると違和感はない。田舎に行くと広大で無慈悲な自然の中で人間はちっぽけな存在であることが示され、インド的な諦念とあいまって、この作品に奥行きを与えている。

 

私たちが光と思うすべて

★★★★

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画「ルノワール」〜観察者としての子ども

※ネタバレあります。

【あらまし】

 1980年代の岐阜市あたり。小学5年生フキは、好奇心が旺盛な女の子。死んだらなぜ悲しいのかとか、テレパシーなどに興味深々である。変わった作文を書いて、教師から心配されたりする。

 フキは一人っ子で、両親は共働きである。父はがんを患っており、入院する。母は、キャリアウーマンだが、ストレスを抱えて、いつも苛ついている。

 フキは、探偵のように世の中を探索して回る。夫を亡くした若い未亡人の話を聞いたり、友達の家で友達の父親の浮気の証拠を発見したり、伝言ダイヤルで知り合った見知らぬ若者の家に行ったり。

 それぞれのエピソードには、つながりは薄い。夢と現実が交錯したりもする。

 ストーリというストーリもないが、時間は流れる。父親の葬式のあと、海辺への旅行の帰りの列車の中で穏やかな表情の母と楽しそうに過ごす場面で終わる。

【観察者】

 フキを動かしているのは好奇心である。特にオカルトと人の感情に興味があるようだ。大人が色々な事情や感情に振り回されて行動をするのを興味深く眺めている。

 たとえば、母は、父を看病しながらも葬式の準備をし、研修で知り合った若い男と付き合いはじめる(フキが興味深そうにこの男の顔を眺めるシーンがある。たぶん、「このおじさんのどこがいいんだろう?」と考えているのだろう)。

 フキはまだ子供っぽいので、大人たちは油断して、フキの前で本音をもらす。父を見舞いに来た部下たちは、タバコを吸いながら、「もう復帰はないな」などと言い合っている。

 インテリの父は、死を避けるために英語の医学雑誌を取り寄せて最新の医療情報を得ているが、結局は民間療法や気功にすがる。フキは父に付き合って怪しげな気功教室に参加する。体調の悪い父と競馬場に行ったりもする。とはいえ、フキは、父に寄り添っているようでも、心配しているようでもない。父が亡くなった後も悲しんでいる様子もない。フキが夏休み中に父の葬式に出た話をすると、外国人の英語教師は同情して悲しむ。フキは、人が死ぬときにどんなことをするのか、死んだことを聞いて人はどう思うのか、ということを学ぶ。

 普通に考えれば、父が入院し、母はフキをほったらかしているので、寂しいはずである。伝言ダイヤルで知り合った自称大学生に、のこのこと付いていくのも、構ってもらいたいからと言えなくもない。しかし、どうもそうとは見えない。人が何を考えて、何を欲望して、何をするのかということを知りたいという好奇心が動機となっているようだ(守りが薄いので、観ている方はハラハラさせられる)。

 偶然が重なって、自称大学生の家から逃げ出したフキは、道に迷って雨の中、橋の上でしゃがみこんでしまう。そこになぜか父が現れて、父に足を拭いてもらい、次のシーンでは無事に自宅に戻っている。フキは現実と幻想のあわいを生きているようでもある。向こうの世界とのつながりが見えるので、人が死を悲しむことが不思議なのかもしれない。フキは、英語の教師に「父と再会できたら、何て言う?」と尋ねられて、しばらく考えたあと、「久しぶり!」と答えている。

【奇妙な世の中】

 フキの目を通してみると、人々の行動は奇妙で複雑。大人たちは、感情や欲望、恥や外聞などに振り回されて、右往左往している。何でこんなにややこしいこをしているのだろう。この作品は、フキの視点を取ることで、一歩離れた地点から、人間社会を眺めるように促す。だから、悲しい出来事を描きながらも感情移入はできない(これが物足りないと思う人もいるかもしれない)。

 誰しも幼い頃は、大人たちのすることを、不思議に思うものである。子どもたちは、成長するうちに、世の中こんなものさと思うようになり、いわば世間ずれしていく。人の死に接すれば悲しみ、表と裏を使い分けるようになる。フキはなぜかこの歳になるまで、世間に染まることなく、純粋に好奇心のままに動いている。フキの感情には、「楽しい、嬉しい」はあるが、「悲しみ、怒り」は薄いようである。精神医学的には、フキはちょっと異常なのかもしれず、心理セラピーを要する状態と判定されるかもしれない(担任教諭は、問題性を嗅ぎ取っている)。しかしながら、少し離れた視点から見れば、普通の人々の方が奇妙であり、物事をややこしくして、勝手に苦しがっているだけなのかもしれない。

 

ルノワール

★★★★★

多様な見方を許容する作品