晴れ、ときどき映画と本、たまに旅

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読書『凡人のためのあっぱれな最期』樋口裕一

 著者の樋口裕一氏は、71歳。文学に造詣の深い、インテリである。2022年に妻を亡くした。この作品は、樋口氏が妻の死に際して考えたことを著したものである。

 樋口氏の妻は、まったくの健康だったが、突然子宮体癌が見つかり、治療の甲斐なく1年半後に亡くなった。樋口氏をはじめ家族は、何とか治療しようと右往左往するのだか、当の本人は泰然としていて、嘆き悲しむこともなく、あっぱれな死を迎えた。それは、修行を積んだ僧侶のようであった。

 樋口氏によれば、妻は、平凡で、怒りっぽい人で、まったく悟ったようなところはなかった。それなのに、なぜ妻があっぱれな死を迎えることができたのか。樋口氏は、妻の生前の様子に、古今東西の文学や哲学を参照しつつ、考察をする。

 樋口氏がたどり着いた結論は、妻は「菫のように生きた」ということだった。これは、夏目漱石の「菫ほど小さき人に生まれたし」という俳句からの引用である。つまり、目立たず、ひっそりと、平凡なありふれた人として生きた。

 樋口氏によれば、生前の妻は、田舎の農家の出で、自然を愛し、自分を生き物の一つとみなして特別視せず、子どもを育てて孫の世話をしたら自分の役割は終わったとみなしていた。現実的な物の見方をし、死後の世界などは信じず、死んだらゴミになるだけと考えていた。温泉に行きたいとか、おいしいものを食べたいといういった欲はあるが、執着はなかった。あまり努力することはないが、そのためか諦めも早かった。そのようなことで、死を目の前にしても、嘆き悲しむこともなく、泰然としていられたという。

 普通、我々は人生に何らかの期待をしている。何かいいことがあるのではないかと漠然と思っている。あるいは、何かの目標を持って、それの実現に向けて努力している。そうでなくとも、食べるもの、着るもの、異性などに執着して、死ぬことを先延ばしにしたいと思っている。

 仏教では、苦しみをなくすには執着を捨てなければならないとする。しかし、執着を捨てるのは容易ではないので、物事をよく観察して、すべての物事は一時的なものであり、執着するに値しないということを実感する(悟る)ことが必要と説く。

 しかし、そんな面倒なことをしなくとも、自然と悟っている人もいるのである。

 もしかすると、表に出てこないだけで、こういう人は結構いるのかもしれない。毎日毎日、多くの人々が死んでいるのである*1。中には、こんな感じで潔く死を迎える人もいるのだろう。

 昔は、死はもっと身近だった。歴史学者フィリップ・アリエスによれば、中世までは死は日常的であり、当たり前の出来事で、普段から死の準備をしていて、死を恐れることはなかった(本書p130 (C)飼い慣れされた死)。

 医療が進歩していなかったおかげで、人はちょっとしたことですぐに死ぬし、がんで余命を宣告され、治療に奔走するということもなかっただろう。余計なことを悩まなくて済んだとも言える。

 アメリカの精神科医キュブラー・ロスの死の受容プロセスモデルによれば、死に直面した人は、「否認→怒り→取引き→抑うつ→受容」という経過を辿るとされ、私もそういうものなのかなと思っていたが、どうやらそうでもなさそうだ。

 樋口氏が最後に述べているように、自然に親しむことが、死を身近に感じる方法のようである。年を取ると四季や植物などに親しみを覚えるのも、死の準備としての心の働きなのかもしれない。

 また、本作は樋口氏の妻への追悼の書であり、しんみりとした読後感であった。

 

『凡人のためのあっぱれな最後』古今東西に学ぶ死の教養

 樋口裕一 幻冬社新書 960円

 

 なお、類書に『人間の死に方』久坂部羊幻冬舎新書)がある。これは、医師だった著者の父が医療を拒否して、やりたい放題、わがままに死んでいったという記録である。これも面白かった。

 

 

 

 

 

 

 

*1:日本で死ぬ人は一日あたり3,280人 厚生労働省「日本の1日」