晴れ、ときどき映画と本、たまに旅

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映画「遺灰は語る」~死者から見た世界

【二つの物語の謎】
 二部構成。「遺灰は語る」(約60分)の後に、短編「釘」(約30分)が置かれる。
 「遺灰は語る」は、ノーベル賞作家ルイジ・ピランデッロの遺灰がローマから故郷のシチリアに帰るまでの旅を描く。
 「釘」は、ピランデッロの遺作を映像化したもの。ニューヨークはブルックリンで、イタリア人移民の男の子が激しくけんかをする女の子二人の内の一人を釘で殺してしまうという不条理な話。

 さて、なぜこういう構成にしたのか。二つの話には、つながりがあるような、ないような……

【まずは遺灰】

 ピランデッロは、実在した作家。ノーベル文学賞を受賞してほどなく、1936年にローマで死去した。
 作家は遺書に、遺体は火葬にして遺灰は海に蒔くように、それが無理なら故郷のシチリアの岩の中に埋葬してほしいと記す。

 しかし、時の権力者ムッソリーニは、遺灰を手放さず、戦後になってようやくシチリアに移されることになった。シチリアから派遣された特使が一人で遺灰を持ち帰る。大きな木箱に入れて。

 まずは、飛行機でシチリアに飛ぼうとするが、木箱に「ピランデッロの遺灰」が入っていることが分かると、他の乗客は「縁起が悪い」と言って、全員降りてしまう。

 仕方なく、汽車で移動。貨車の中は、人々でごった返している。ピアノの演奏に合わせて無表情で踊る男女、トランプで賭け事に興じる男たち、戦病者、愛を交わす男女……。特使が気が付くと、木箱がなくなっている!……実は、トランプの台に使われていたのだった。

 シチリアでは、遺灰がギリシア壺に入っていたため、お祈りができないと神父が騒ぐ。棺に入れればいいだろうとなったが、インフルエンザの流行で死者が増え、大人用の棺がない。やむなく子供用の棺に入れて、葬礼が行われる。

 偉大な作家の葬礼に市民は哀悼の意を表するが、棺が小さいのを見て、子どもが「小人が入ってる!」と言って笑い、それを耳打ちされた大人たちも笑いをかみ殺す。

 遺灰は、15年の間、市の図書館で保管されたのち、作家の故郷に作られた墓地にやっと葬られる。遺灰を入れる器からこぼれた灰だけは、作家の望み通りに海に撒かれて。

【そして釘】

 海の場面から、カラーになる。

 それから、「釘」が始まる。

 場所は、ニューヨークのブルックリン。時代は20世紀初頭頃?

 移民のイタリア人の子は、父親が経営するレストランで働いている。ウェイター係だが、バンド演奏に合わせてダンスを披露する。でも、一日の仕事が終わって、食事時に浮かぬ顔を見せる。父から、外の空気を吸ってくるように言われ、ぶらぶら歩いて野良犬を構ったりしているとき、偶然、大きな釘を拾う。折しも、広場で二人の女の子が現れて、激しくけんかをする。それを眺めていた男の子は、近づいて釘を小柄な女の子の上に落とし、女の子は死ぬ。

 警察で取り調べを受けた男の子は、ただ「定め」(on purpose)とだけ供述する。警察官が何度尋ねても、その意味は不明。

 そして、刑期を終えて大人になった男の子は、毎年毎年、亡くなった女の子の墓参りを続ける。杖をつき、白髪になるまで。

【ナンセンス】

 ノーベル賞作家のものであっても、遺灰は遺灰である。ただの灰である。どうでも良いものである。

 むしろ、遺灰はやっかいなものである。縁起が悪いものだ。大きな木箱に入れられてたそれは、やくざ者たちのトランプの台にちょうどいい。

 しかし、それは偉大な作家のものである。荘重に扱い、立派な墓に納めなければならぬ。たとえ、誰もその作品を読んでいないとしても。

 子どもには、そんなことは関係ない。大人たちが、真面目くさって小人の葬礼をしているのが、笑えて仕方がない。

 本当は、みんな何でこんなことをしているのか分からないのだ。

 遺灰(つまり死者)の視点から見れば、人間の営みは、おしなべて無意味なのである。

 背景には、戦争がある。前半には、機関掃射や銃殺刑などのショッキングなニュース映像が挟まれる。みんなそれに振り回され、散々な目に遭ったのだ。

 しかし、あれだって、終わってみれば一体、なんだったのだ?

 「釘」は、作家が死の20日前に書いた作品であるという*1。移民の男の子は、理由なく女の子を殺す。その前の女の子同士のけんかは、凄まじい。意味もなく、ありったけの憎しみをぶつけ合う。まるで、戦争のメタファーである。男の子は、女の子の上に、釘を落とす。そして、それは「定め」(on purpose)だという。まるで、男の子は神の命令を実行したかのようだ。そもそも幼い頃に母親から引き離されたのも「定め」だった。人間としての彼は、生涯を掛けて女の子を弔うのだが。「定め」に振り回される人間には、祈ることくらいしかできない。

【老監督と老作家】

 本作の監督パオロ・タヴィアーニ監督は、91歳。名匠タヴィアーニ兄弟の弟である。兄はすでに他界している。

 当然、監督は、自らの死を意識しているだろう。そして、死者の目線から、人間の在り様を描いて見せた。そこには、ストーリーはない。ただ、モノクロから突然、カラーで現れた海は美しい。

 死を前にした老作家の最後の作品は、不条理な物語であった。すべは定めに従う。人間は無力な存在に過ぎない。

 それは、作家ピランデッロが死を前にして、辿り着いた境地なのだろうか。そうであれば、老監督が遺灰の物語の後に「釘」を置いたのも、自然のなりゆきだったのかもしれない。

【on purpose】

 男の子が殺人の動機として語った"on purpose"は、字幕では「定め」となっていたが、辞書を見ると、「故意に」「わざと」という訳しか書いていない。

 しかし、「わざとやった」では、意味がまるで違ってくる。反対語が"by accident"「偶然に」とあるので、"on purpose"には「必然に」という意味もあるのだろうか。それを「定め」と意訳したものか。

 「定め」となると、どうしても宗教的な感じがするので、気になったところです。

 なお、本作の原題は"LONORA  ADDIO"(レオノーラ、さようなら)である。これは、ピランデッロの他の短編小説の題名であるとのこと*2

 深掘りするとキリがなさそうなので、この辺でやめておきます。

 

「遺灰は語る」

芸術度 ★★★★★

ユーモア ★★★