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映画「ナチスに仕掛けたチェスゲーム」〜生き延びるために必要なもの

※ネタバレあり

【あらすじ】

 ウィーンで女優の妻とともに優雅に暮らす公証人バルトーク。自信にあふれ、誇り高い男。音楽と文学をたしなみ、美食と舞踏を楽しむ毎日を送っている。

 1938年、ナチスオーストリアに進軍する。高を括っていたバルトークだが、ホテルの一室に監禁されてしまう。ナチスの狙いはバルトークが管理する貴族の莫大な財産だった。銀行口座の預金番号は、バルトークの頭の中に仕舞われていたのだ。

 ナチスの将校ベームのやり方は、洗練されたもの。直接には手を出さず、何もない部屋に閉じ込め、じわじわ心理的に追い詰めていく。

 しかし、バルトークは、口を割らない。

 ひょんなことで、バルトークは、一冊の本を手に入れる。それは、チェスの本だった。チェスなんかプロイセンの軍人の遊びだ、と小馬鹿にしていたバルトークだが、こっそりと駒を作ってチェスにのめり込む。それでようやく精神の均衡を保つのだった。

 しかし、チェスの本は見つかり、没収されてしまう。その時点で、チェスの本の内容は、バルトークの頭の中にしっかり刻み込まれていた。幻想の中で、本の中に登場するチェス名人になりきって、自分自身と対局するバルトーク。次第に狂気と正気の間をさまよい始める。

 ベームの取り調べ。預金番号を書けと迫る。バルトークは、幻想の中で、アメリカに脱出する船の中でチェス王者と対戦している。バルトークは、ついに勝利する。そして、ベームに差し出した紙片に記されていたのは、預金番号ではなく、チェスの棋譜だった。

 これに参ったベームは、バルトークを釈放する。バルトークも無傷では済まない。精神をすっかりやられてしまい、愛する妻も、愛誦していたオデッセイアも忘れてしまったのだった。

【一冊の本の力】

 外務省のラスプーチンこと、元外交官で作家の佐藤優氏は、背任・偽計業務妨害で東京拘置所に512日勾留された。佐藤氏は、独房の中でひたすら語学、神学、歴史、宗教、哲学などの本を読み、ノートをとるという生活を送ったという。独房というのは、語学の勉強には最適だそうである。*1

 逆にそういうものがないと、頭がおかしくなるのだろう。心理学で感覚遮断実験というものがあるが、人間は刺激のない環境に長期間置かれると、かなりの頻度で幻覚を見るらしい。

 バルトークは始め、オデッセイアの一節を繰り返し暗唱する。しかし、暗記している内容には限界がある。何でもいいから、本がほしい。

 手に入れた本を開くときのバルトークの震える手。よほど嬉しかったのだろう。チェスの教則本と分かり、一旦は落胆するが、かえって良かった。まったく未知の分野なので学ぶ余地が大きく、駒を並べて考えることがでるから。それでバルトークは尊厳を保つことができた。

 人間としてあるには、衣食住が足りているだけではなく、人間的な活動(考えること、物を作ること、話すことなど)が不可欠であることがよく分かる。

 もっとも、本を取り上げられ、チェスの駒も踏みつぶされてしまった後は、幻想の世界に入り込んでいまう。そうすることで、やっと生き延びたとも言える。

アンシュルス

 映画の冒頭では、1938年3月13日にナチスドイツによるオーストリアを併合の場面が描かれる。ウィキペディアで調べてみると、「アンシュルス」と出てきた。村上春樹の「騎士団長殺し」でも「アンシュルス」が作品の背景となっていたのを思い出した。

 ドイツ軍は、オーストリア大衆に歓迎されたとのことである。映画では、舞踏会会場に向かうバルトーク夫妻の乗る車が群衆に取り囲まれる場面が描かれていた。特権階級であったバルトークは、大衆からは反感を買っていたようである。バルトークがあくまで貴族の銀行口座を守り通そうとした動機はよく分からなかったが、その辺りの事情も関係していたのだろうか。また、ナチス側の取調官ベームも、バルトークには紳士的な態度を取り続けていたが、それもバルトークの社会的な地位が関係していたのだろうか。(ベームは「友達になろう」などと言っていたが、バルトークはそれを拒否し、ずっとベームを見下していた。ベームにはコンプレックスがあったのかもしれない。)

【邦題】

 原題は"Schachnovelle"「チェスの話」。シュテファン・ツバイクの原作と同じ題名である。

 「ナチスに仕掛けたチェスゲーム」という邦題からは、「チェスの知識を駆使して、頭脳戦を仕掛け、ナチスに一泡吹かせた」みたいな話を想像していたのだが、「不条理な目に遭わされたが、チェスの本があったことで、かろうじて正気を保って乗り切った」という話で、頭脳戦というよりも「肉を切らせて骨を断つ」的な話であった。

 邦題も「チェスの話」で良かったのでは?

 なお、映像技術を駆使して、現実と幻想が入り乱れる状況を巧みに表現されており、中々見応えのある作品であった。

 

ナチスに仕掛けたチェスゲーム

ヒューマン度 ★★★★

スリル度   ★★★

 

 

 

 

 

*1:佐藤優「獄中記」岩波書店