※ネタバレあり。
【あらまし】
つげ義春の短編漫画「海辺の叙景」「ほんやら洞のべんさん」をもとにした作品。舞台を現代に移し替え、劇中劇の手法を用いられる。
ひなびた漁師町の海辺で偶然出会った若い男女。何となく一緒に時を過ごす。台風で荒れる海に二人は入り、先に上がった女はもがくように泳ぎ続ける男に声援を送る。
実は、これは脚本家の李が描いた作品が映画になったもの。映画の上映会で学生から質問を受けた李は、「私には才能がないと思いました」と答える。行き詰った李は、雪深い温泉町に一人旅に出かけ、そこで、古い民宿を一人で営むべん造の宿に泊まるはめに。そして李は、べん蔵の盗みにつきあわさせることになり……
明解なストーリーやあっと驚く結末は用意されていない。
【言葉の外へ】
李は脚本をノートにハングルで書いている。李は、「日本にやってきたときには、言葉が分からず怖かったが、物の名前が分かっていくにつれて、怖くなくなった。しかし、その名前の付いた言葉たちが、自分を苦しめる」と独白する。それで旅に出る。行き当たりばったりだったので、どこのホテルも満室。成り行きで、べん造の宿に泊まることになった。
べん造は、得体が知れない男である。客が来ても歓迎するでもなく、仕方なく泊めてやっているような風情である。その割には、李が脚本家だと聞いて、創作のアドバイスをしたり、自分をモデルに作品を書いてみろ、などと言う。それでは、と李がべん造のプライベートを尋ねると、今度は口を閉ざしてしまう。そして、李から錦鯉の養殖でもしたらと言われると、急に支度を始め、暗くて雪深い外に李を連れ出す。近所の金持ちの家の錦鯉を盗みに行くために……。
このように、べん造の言動には論理や一貫性がない(盗みに行った先は、べん造の妻の実家で、そこでべん造は自分の子と出くわしたりし、深い事情があるようなのだが、それについては語られることはない)。
しかし、この旅の中の小旅行ともいえる体験を経て、李は元気を取り戻すのである。脚本を書いて評価を受けるということ(つまり言葉=論理)に疲れた李が、言葉の外に出ることによって、肩の荷が下り、本来の自分を取り戻したということのようだ。
【旅の効能】
心が疲れたときには旅をするのが良い、と言われる。悩んでいることや場所からいったん離れるとリフレッシュされる、という効果が期待されている。確かにそういうことはありそうだ。
人の悩みの大半は、対人関係の悩みなんだそうである。そして悩みは、色々と考えることから起こっている。人は言葉を使って考える。だから、言葉が人を悩ませ、苦しませるということになる。
ということなので、悩みから離れるために旅をする場合は、一人旅が良い。それから、多少は慣習や言葉が違う場所の方がいいのかもしれない(まったく慣習や言葉が分からないと、心配で悩みが増えてしまうおそれがある)。そこで、普段とはまったく違う体験をするのが良いのかもしれない(あるいは、意味のあることは何もしないのも良いかもしれない。「海辺の叙景」の二人のように)。
もちろん、観光やアクティビティのための旅行も悪くはない。それはそれで楽しいものだ。しかし、心が疲れたときに、いつもの仲間とスケジュールびっしりの旅行に行っっても、より疲れが増すだけだ。
旅に出られないときには、近所の公園で木に抱き付いてみるだけでも効果があるらしいが、これは同じ理屈だろう。*1ポイントは言葉の外に出るということである。
【劇中劇】
本作は、劇中劇の手法が用いられている。「海辺の叙景」は、李の頭の中のストーリであり、それに触発されて、李は旅に出る。そういう意味では、李は自分が想像したことをなぞって行動したとも言える。想像力が行動を生み出すということか。もし、この映画を見た人が旅に出たとしたら、この映画がその人の中での劇中劇の役割を果たすことなる。そう考えると、劇中劇という形式が合わせ鏡のように、作品に奥行きを与えていると感じる。旅先でべん造に出会えるかどうかは分からないけれど。
旅と日々
★★★★