【ネタバレ注意】
キリスト教の一派の閉鎖的なコミュニティの中で起きた一連のレイプ事件。
男たちが留守の二日間に、女たちは男たちと闘うか村から逃げるかを話し合って決める。
ほとんどが話し合いの場面。議論やディベートではない。トーキングである。
最初はほとんど折り合わない。闘うことと、逃げることのメリットとデメリットを挙げていく。体験談を語る。誰かが冗談を言い、声を上げて、大笑いする。みんなで歌を歌う。感情をむき出しにして、ぶつかり合う。
何を最優先にすべきか。それは「安全」を得るということ。どうすれば男たちも女たちも傷つかずに済むか。子どもたちはどうするか。方向性が定まっていく中、一人、強硬に反対をする人がいる。激しいやりとりの後、真摯な謝罪が行われる。そして、全員の納得が得られ、実行に移される。
「赦し」とは何か。それは、相手の蛮行を容認することではなく、相手がそうせざるを得なかったことを理解すること。
二日間というタイムリミットの中で、納得のいくまで話し合い、ぎりぎりに結論が出るという設定は、スリリングであった。
人は正しい結論だけを示されても、納得はしない。それどころか、正しい結論を突きつけられると、それだけで反駁したくなるものだ。論破ではなく、肚落ちすることが大事である。それには、時間を掛けて、じっくり話し合うこと。
映画「怪物」は、「理解されないこと」がテーマであったが、本作では「理解すること」がテーマとなっていたのは、面白く感じた。
民俗学者の宮本常一によれば、昔の日本の村では、重要なことは寄りあいで話し合って決めていた。弁当持参で、丸二、三日掛けて、納得のいくまで話し合う。その間、出入りは自由だし、眠くなったら寝てもいい。話題もどんどん脇道にそれる。
……この寄りあい方式は、近頃始まったものではない。村の申し合わせ記録の古いものは二百年近いまえのものもある。……(中略)……昔は腹がへったら家にたべにかえるというのではなく、家から誰かが弁当をもって来たものだそうで、それをたべて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かすものあり、結論がでるまでそれがつづいたそうである。といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから、結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。*1
納得がいくまで話し合えば、結論は守られるのである。