「箱男」は、箱を被った男が奇妙な体験をする話である。原作は阿部公房。今回は小説を読んで予習してから観に行った。
箱男は、段ボールを被って、その中で暮らし、街を徘徊して、のぞき窓から外を見る生活を送る。普段は気にしないが、実は街のそこここにいて、いったんそれを意識すると、自分も箱男になってしまうのだとか。(「箱女」がいないのはなぜだろう。最近の言い方にならうと、「箱人間」とか「箱パーソン」となるのだろうか。)
箱男は、ひたすらノートに書いて記録する。これも箱男の習性らしく、ノートを大事にしている。
まあ、段ボールに入って暮らすというのは、あり得ない話なので、これは何かの象徴と考えて良いだろう。それにしても、阿部公房は、ありもしない想定の話をえらく具体的に書いている。段ボール箱の選び方、箱の作り方(特に窓の開け方)、必要な備品とその保管方法、大小便の仕方まで……。シュールな設定をするには、細部を具体的にするというのが原則なのである。
箱男は、箱に入ると背丈が低くなっている。歩くときもその高さである。すると腰をかがめているということになり、これは腰に悪いのではないかと思った。また、箱の中は案外広いようであるが、段ボール箱は、それほど大きなものではなく、そんなに空間があるのかなと疑問に感じた。
【見ることと見られること】
箱男は、見られずに見るということに特化している。見るということは、光が感覚器に入ってそれを映像化するという受動的な働きであるが、なぜか攻撃性があるのである。
考えてみるに、見るということは、相手の情報を取るということである。情報があるとそれだけ優位に立つことができる。それを動物に置き換えると、狩ることができるということである。逆に見られるということは、狩られるということである。だから、動物では擬態をしたりして、相手に見られないようにする(そういえば、箱男も顔に迷彩模様をペイントしていた)。アメリカ人でさえ、たいていの人は人前で話すのが苦手なんだそうである。視線にされされるというのは、無条件に緊張を強いるものなのだ。そう考えると、敏感で不安定な若者たちが、「見た」「見ない」で喧嘩を始めるというのも、致し方ないことか。
支配者は、自分の姿を見られずに、見ようとする。ジョージ・オーウェルの『1984年』でもそのような世界が描かれていた。ここ日本でも、いつの間にやら街には防犯カメラが張り巡らされるようなった。むしろ、防犯カメラがない場所の方が珍しいくらいである。
人は見る側に回りたいと望む。それを簡単に実現させてくれるのが、スマートフォンである。小説の中で、主人公はラジオから流れて来るニュース中毒になり、ニュースを聴くことがやめられなくなったという話が出て来る。これは、ちょうど、スマホのニュースを次々と検索してしまう人と同じである。小説の中では、主人公は、ニュース一つ一つに興味があるわけではなく、まだ最後のニュースではないことを確認して、自分がまだ生きていることを確かめずにはいられない。情報が得られるとなると、人はそれに依存してしまう性質があるのだろう。優れた作品には、予見性があるということか。
【書くことと書かれること】
「箱男」のもう一つの主題は書くことである。小説では、主人公が書いた手記が並べられて進んでいき、次第に現実の世界のか、箱男がノートに書いた空想の話なのか分からない感じになり、書き手もニセ箱男のニセ医者に変わったりするなど、ややこしくなっている。箱男が書く(記録する)という行為に執着するのは、書くことで世界を理解しようとしたのだろうか。しかし箱男はニセ医者から、すべて妄想に過ぎないと指摘されてしまう。小説を書くことは、何もないところに言葉だけで世界を作り上げることである。阿部公房は、小説家だけに、小説を書くこと自体について書こうとしたものであろうか。
【箱とは何か】
箱は、我々が身に付けている鎧みたいなものだろう。箱男とニセ箱男が箱男の座を巡って闘う場面がある。箱に入ったままで闘うのは動きにくく、こっけいでもある。箱から出た方が有利なように思えたが、箱男の主権を争っているので、箱から出たら負けということなのだろう。これは肩書を脱がないまま、権力争いをしている人々の風刺のように思える。そういえば、スーツにネクタイ姿というのは、箱を連想させる。
【本作】
映画では、現代風にアレンジしたり、演出をつけ足したりしているところもあるが、おおむね原作に忠実に作っている。ただし、冒頭10分くらいの音量が大きすぎるのには閉口した。現代人は、ますます箱男(箱パーソン)的になっているな、などといった連想が誘発される作品ではあった。
★★★